納め御講で参詣してまいりました。
天候は荒れ模様の予報どおり、寒さの厳しさが増し風も強く、駐車場の案内係をして下さった方たいへんそうで、ありがとうございました。
御本尊様にきちんと心を合わせて、しっかりと読経・唱題できたと思います。御導師を務めて下さる御住職様にはいつも感謝するしだいです。
今年を振り返り、反省すべきところは反省し、来る「活動充実の年」に向けて、やるべきことで今からできることはすぐ始める、できないことはどうしたらできるか努力する、これを自分の頭と力にだけ頼るのではなく、御本尊様をあらためて信じ受け入れ、全てを御任せして新しい一年をやってゆけるよう祈るばかりです。
御講の後は大掃除が行われましたが、すみません、私は参詣後どうしても行かなければならない用があり、お掃除には参加できませんでした。後日あらためて挽回したいと思います。
ところで一つ。
完全に個人を特定できないようにするため伏せさせていただきますが、「お寺に興味はない」「お寺はいらない」などと言われたことがありました。
「お寺に興味はない」とは言い換えると「宗教に興味はない」ということなのかなと思いますし、「お寺はいらない」!?などと言われると、あまりにも辛辣で衝撃的な言葉と言いますか、「いらない」ってこの場合お寺の存在そのものを否定する意味でもありますから、それなりにショックなわけであります。
信心は、始めるきっかけとしてはまあよいのでしょうけれど、そもそも自分の興味で決まってしまうものではないです。自分の興味で始めたり止めたりするのでしたら、それは何かを信じているのではなくて、どこまで進んでも自分と自分の興味、つまり御本尊様を信じているのではなくて自分を信じていることになります。結果いつまでも同じことで悩み、同じところで辛い、そのような状態にいつもなるのは当たり前なのに、信心に責任転嫁して止めてしまう。とてももったいないことです。
それから「お寺はいらない」と言うのは、その人にとって他にもっと素晴らしいものがあるのか、それとも自分の信念に従って生きてゆくのが最も幸福なのか、そういうことなのかもしれません。しかしどうでしょう。そう言う方が実際に、現実の生活の苦しみ、健康上の不安、人間関係などの苦しみ悩みから全く自由かというと、そんなことはありません。ではどうしているかというと、日々過ごす中でいろいろな出来事、思いが入り混じるわけですが、その中に苦しいこと悩むことを紛れさせて誤魔化しているだけ。辛く苦しいことはまともに見ないようにしている。そうではないでしょうか。
こういうことでは本当の幸福に至れるわけはありません。
いずれにしても、道のりは長いです。でも止めたらそこで終わり。上に書いたところに閉じ込められたままそこに居続けるしかなくなるだけです。これでよいわけがありません。
「信をもって源とす」日女御前御返事 1388頁
自分だけではなく、またその自分だけでどうにかすることでもなく、戒壇の大御本尊様を清らかな心で信じ続けることによって、私たちは本当に幸せな生き方、幸福の境界に至ることができますし、成仏することができます。
とかく自分の頭や自分の力だけで何とかしようとしてしまいがち、結果苦しさが増すばかりになってしまいがちですが、まずは信を以て御本尊様にお任せすること、そしてそれが無ければ何にもならないことをあらためて心に刻み、年頭を迎えましょう。
写真は自宅の窓から見える田んぼです。真っ白ですね。