顕正会の方たちとお話をする機会がありました。お二人で、個人情報を伏せますので、男性Aさん女性Bさんとさせていただきます。
長くなるので結論ですが。
こちらの疑問には全く答えないです。というか答えられないのでしょう。そして、長々とまくしたてた後の最後には、自分たちから会話の席を立ちあがり、聞いたセリフが「話が並行線だ」「もう会いません」です(Bさん)。
私は切り捨てられました😢
自分の主張が受け入れられなければ「話が平行線」だから「もう会わない」(Bさん)だそうです。約束をしていないあなたが突然その場にAさんと一緒にいらっしゃっていて、私は無礙にするのもよくないと思い、それについては何も言わずにいたのに最後はそのセリフです。
こちらが持っていったリーフレットや資料に眼を通すこともなく受け取りも拒否。もちろん私は顕正会が配っている宣伝紙は知ってますし読んでます。
Aさんは私を今すぐには切らないとは言ってくれましたが、上の人と相談して・・・だそうです。何を相談するのでしょうかね。自分が無いのでしょうかというのもありますし、何でそこまで上から目線で言われなければならないのでしょうか。と言うのは言い過ぎでしょうか。
しかも実際の生活で謗法と知りつつそれを行っている自分がいるのに、日蓮正宗を謗法者呼ばわり。何なのでしょうか。言っていることとやっていることが違うところで信心しているからそういう信心になるのでしょう(信心と言っていいのでしょうかね)。それとも顕正会の言う信心は観念の世界のことなのでしょうか。
「国立戒壇」「御遺命破壊」「悪臨終」だ~云々などと、想像していたとおりまくしたてていかれましたが、顕正会のそれは全て誤りであると、とっくに済んでいることです。
私が所属する日蓮正宗寺院の法華講の心得の一つに「世間においても範士であれ」があります。「範」とは模範の範です(精選版 日本国語大辞典)。これは「世間においても模範となる人であれ」ということと理解しています。
私はまず一人の人として、当然自分自身も振り返りながら、この世間の人としてどうなのかなあというのをこの度のことに馳せて思いましたし、まずはじめに感じぜずにはいられませんでした。そういう出来事でした。
日蓮大聖人の御遺命は「血脈相承に随順する」ことと「広宣流布に向かって精進して本門寺の戒壇の建立を期する」ことです。
取るに足らない私ですが、この御遺命に従い、自他ともに仏道を成じて安らかに同じく寂光浄土に帰することができますよう祈らせていただきます。
追記:Aさんにはその後すぐまたラインでメールを送らせていただきましたがそのお返事はまだいただいていないです。Bさんからは連絡先も教えていただけませんでした。いつでもお待ちしています。
何かありましたら何でもお気軽にご連絡ください。
お待ちしています。
(注)申し訳ありませんが非通知、ワン切りの電話などには対応いたしかねます。
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