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1/12/2025

令和7年1月12日御報恩御講

 「貴辺又日蓮にしたがひて法華経の行者として諸人にかたり給ふ。是豈流通にあらずや。法華経の信心をとをし給へ。火をきるにやすみぬれば火をえず。強盛の大信力をいだして法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人、乃至日本国の一切衆生の口にうたはれ給へ。」

「あなたもまた、日蓮に従い、法華経の行者として諸人に話されている。これこそ法華流通の義ではないか。法華経の信心を貫き通しなさい。火打ち石で火をつけるのに、途中で休んでしまえば火を得られない。強盛な大信力を出して法華宗の四条金吾・四条金吾と鎌倉中の上下万人および日本国の一切衆生の口にうたわれていきなさい。」

四条金吾殿御返事(御書599)

本日御報恩御講参詣してまいりました。

「強盛の大信力をいだして」と聞いただけで、この性格だからでしょうか、弱気・不安・あきらめ・・・のようなもので頭の中がなんだかモヤモヤしてきます。それではいけないのですが。

自分の人生に当てはめたらどうなのでしょう。

家族をこれまで大切にし切れていなかった。きちんと向き合ってこなかった。それが今結果として現れているのを確かに感じています。

だから弱気・不安・そしてあきらめ・・・

家族のことだけではなくどんなことに対してもそうだったと思います。

そして知らず知らずのうちに、ただ刹那的な考えになり行動もそうなる。

そうではなく、今からでも遅くない。今得ている結果は結果としてそこから眼をそらさず、しっかりと向き合って行動してゆけば必ずよくなる。そして家族みんなで幸せになれる。

日蓮正宗で信仰をはじめて、そういう勇気を与えられたと思っています。

この信心をして、信心しているからあの人は、あの家族は幸せなんだと言われるように強盛にがんばってゆきたい。

そう思った日でした。

12/22/2024

令和6年12月22日納め御講

納め御講で参詣してまいりました。

天候は荒れ模様の予報どおり、寒さの厳しさが増し風も強く、駐車場の案内係をして下さった方たいへんそうで、ありがとうございました。

御本尊様にきちんと心を合わせて、しっかりと読経・唱題できたと思います。御導師を務めて下さる御住職様にはいつも感謝するしだいです。

今年を振り返り、反省すべきところは反省し、来る「活動充実の年」に向けて、やるべきことで今からできることはすぐ始める、できないことはどうしたらできるか努力する、これを自分の頭と力にだけ頼るのではなく、御本尊様をあらためて信じ受け入れ、全てを御任せして新しい一年をやってゆけるよう祈るばかりです。

御講の後は大掃除が行われましたが、すみません、私は参詣後どうしても行かなければならない用があり、お掃除には参加できませんでした。後日あらためて挽回したいと思います。

ところで一つ。

完全に個人を特定できないようにするため伏せさせていただきますが、「お寺に興味はない」「お寺はいらない」などと言われたことがありました。

「お寺に興味はない」とは言い換えると「宗教に興味はない」ということなのかなと思いますし、「お寺はいらない」!?などと言われると、あまりにも辛辣で衝撃的な言葉と言いますか、「いらない」ってこの場合お寺の存在そのものを否定する意味でもありますから、それなりにショックなわけであります。

信心は、始めるきっかけとしてはまあよいのでしょうけれど、そもそも自分の興味で決まってしまうものではないです。自分の興味で始めたり止めたりするのでしたら、それは何かを信じているのではなくて、どこまで進んでも自分と自分の興味、つまり御本尊様を信じているのではなくて自分を信じていることになります。結果いつまでも同じことで悩み、同じところで辛い、そのような状態にいつもなるのは当たり前なのに、信心に責任転嫁して止めてしまう。とてももったいないことです。

それから「お寺はいらない」と言うのは、その人にとって他にもっと素晴らしいものがあるのか、それとも自分の信念に従って生きてゆくのが最も幸福なのか、そういうことなのかもしれません。しかしどうでしょう。そう言う方が実際に、現実の生活の苦しみ、健康上の不安、人間関係などの苦しみ悩みから全く自由かというと、そんなことはありません。ではどうしているかというと、日々過ごす中でいろいろな出来事、思いが入り混じるわけですが、その中に苦しいこと悩むことを紛れさせて誤魔化しているだけ。辛く苦しいことはまともに見ないようにしている。そうではないでしょうか。

こういうことでは本当の幸福に至れるわけはありません。

いずれにしても、道のりは長いです。でも止めたらそこで終わり。上に書いたところに閉じ込められたままそこに居続けるしかなくなるだけです。これでよいわけがありません。

「信をもって源とす」日女御前御返事 1388頁

自分だけではなく、またその自分だけでどうにかすることでもなく、戒壇の大御本尊様を清らかな心で信じ続けることによって、私たちは本当に幸せな生き方、幸福の境界に至ることができますし、成仏することができます。

とかく自分の頭や自分の力だけで何とかしようとしてしまいがち、結果苦しさが増すばかりになってしまいがちですが、まずは信を以て御本尊様にお任せすること、そしてそれが無ければ何にもならないことをあらためて心に刻み、年頭を迎えましょう。

写真は自宅の窓から見える田んぼです。真っ白ですね。



11/10/2024

御報恩御講でした(仏教勉強会も)

本日は御講(おこう)でお寺に行ってまいりました。

御講にも御逮夜と御正当がありまして、その両方で参詣させていただきました。

今日も天気がよかったです。最後は皆さんと一緒に御寺をお掃除させていただいてそれもよかったです。冬が近づいているせいか水道の水も冷たくなりました。でもそんなことは全く気になりませんでした。



御住職の法話をいただく中で一つの念が浮かびました。でもそれは法話をいただいて突然浮かんだということではなく、実は前々から思っていたことでもあります。ただそれにしっかり気づけていなかった、というか気づこうとしなかった、無意識の内に避けていた。自分を振り返るとそういうことなのだなあと思いました。

今までの人生を振り返ると「残念な自分がここにいる」、ということがありありと存在感を増している。そのようにただひたすら現実感を増して浮かんでくる。

家族のこと、生活のこと、病気のこと、その他いろいろなこと、たくさんの悩みがあります。お寺にくる皆さんだってきっとそうでしょう。たいへんな思いを抱えながらお寺にきて、御本尊様にしっかり向かって御経を読み御題目を唱えているのです。仏様を求めているのです。

私はこれまで自分が関わってきたたくさんの人やたくさんの事柄などとの御縁など全くと言っていいほど考えたことがありませんでした。それが良縁であっても悪縁であってもです。突然湧いたように出てきては突然消える。人との出会いや世の中で生きている内に自分に関わる事柄などは、そのようにしゃぼん玉のように突然出てきて突然あとかたも無くなる。

これまでこういうことのくり返しな人生だったと振り返ります。

それにしても縁を無視といいますか、そもそも存在していないものとしているなんて、今思うとただひたすら恐ろしいばかりです。

これまで私が数限りなく無駄にしてきた縁というものを大切に考えてゆきたいと思います。もちろんその中にはよいものもよくないものもあるでしょうけれど、その縁に支えられているということをしっかりと心に刻み、それを何とかよくしていただきたいと乞い願い、御本尊様に向かいお経を読みお題目を唱えるのです。

そこで今の私にまだ足りないことは何か。

ひとつ。まだまだ唱題(御本尊様を信じて御本尊様に向かい御題目を唱えること)が足りないのでしょう。他人事ではありません。私は足りないから分からないのです。分からないからまたよくない方向を向いてしまうのです。

御本尊様と境智冥合(きょうちみょうごう)できるよう、自分の心をしっかりと御本尊様に合わせ、しっかりと唱題を続けてゆきたいと思います。今日やったから今叶う明日叶うというものではありません。でも毎日仏道の修行をしっかりと続けてゆけば必ず叶うのです。

あらためてこう思った日でした。

※仏教勉強会については日をあらためてまたにさせていただきます。

お問合せは下に連絡先がありますのでそちらからどうぞ。コメントもお待ちしております。

ぜひ一度日蓮正宗のお寺にいらしてください😄


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霊感商法相談1万件超

数日前の地元新聞紙上に「霊感商法相談1万件超」という記事がありました。 法テラス(日本司法支援センター)という組織には毎月200件前後の相談が寄せられていて、信者または元信者の方、またそのお子さんやお孫さんからも相談が寄せられているそうです。 相談された方の所属する、または被害に...